南朝・北朝
336年、足利尊氏は、建武の新政府に反旗をひるがえす際に、朝敵の悪名を避けるため、鎌倉特代以来続いてきた天皇家の皇位争いを利用し、大覚寺統の後醍醐天皇に対抗して京都に持明院統の光明天皇を擁立しました。そのとき後醍醐天皇は京都の南方吉野へ移って新しく朝廷を開き、年号まで別に設けて持明院抜に対抗しました。持明院統の京都朝廷を北朝、大覚寺統の吉野朝建を南朝と言い、両朝の争った時代を南北朝時代と言います。両朝の争いは室町暮府を背後に持つ北朝の勝利となり、1392年、南朝は北朝に吸収され、以後、皇位は北朝が継いでいます。明治の末、議会で南北朝の工閏を国正化させようとする議が事こり、南朝を正統視させることにしました。それで第二次世界大戦後、南朝後裔を名乗るものが現われたりしました。

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