平城宮跡

710年に平城京が経営され、それから都は784年に寧楽を去って、長岡に移されました。その七十余年間、都はだいたい寧楽にあったと言ってよく、この寧楽の都は、今日の奈良の西から南にかけ、大和平野の北部を占めていて、南北三十六町、東西三十二町に及び、左京、右京に分かれていました。都の北部の中央に宮城が設けられており、都にはそのほか薬師寺などの寺院や市場及び貴族達の邸宅が建てられ、民衆のも建っていました全地域が建物でうずまったとすれば、十五万から二十万くらいの人口になるわけでした。この寧楽京は、平安遷都後も、しばらく栄え、諸大寺の門前町として発達することになりました。近年になって平城宮のあとが発掘されつつあり、遺跡を具体的に調べ、多数の木簡類の発見で重要な史実も明らかになっています。

日本史

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